お辞儀の仕方で恥をかく私
以前会社でお客様とエレベーター前でお別れした後、
社内の人からお辞儀の仕方について、
「おいおいー。お見送りするときは相手が見えなくなるまでお辞儀し続けないとだめだよー」
と指摘を受けました。
「え、ああそうなんですか」
といい年をこいて世間知らずな僕でした。
「知らんかった」と思い、ネット等で調べてみてもそのほうが良いと書かれていて結構ショックでした。
いい年こいて知らなかったことを指摘されたのが癪だったわけではありません。
自分が教わってきたことと違ったからです。
自分が小さいころ、私は剣道をやっていまして、その時先生から礼の仕方について教わったのです。
先生からお辞儀について教わったことで印象的だったのが、
「お辞儀をしたら、最後に相手の事をしっかり観ないといけない」
「お辞儀をして顔上げずにそのままというのは本当は失礼にあたる」
みたいなことを言われました。
剣道は武道ですから、顔を下げたままだと斬られるからとかそういう意味もあったのかもしれないですが、子供の頃の私は「へぇ、そうなんだいいことを教わった」と思い以後ずっとそうしてきたのです。
私が学んだことが正解なんだと力説したい訳ではなく、考え方の違いでお互いに生じる気持ちにも差が出てくるんだなということです。
子供の頃にそう学んだ私ですから、以後指摘されるまで不愉快になった人もいるかもしれません。すみません・・・・
「礼」についてある時大事なことに気づく
私は宮城谷昌光先生が書く歴史小説が子供の頃から大好きなのですが、どの作品にも「礼」という言葉がよく出てきます。
この「礼」というのが人物関係の非常に重要なキーワードになっていて、子供心にも大事なものなんだなあ?と感じつつもよくはっきりせず難しいと思っていました。
あの人には「礼」がある。とか「礼」が無いとか。あるからどうだとか、ないからどうだとかという文章が多いのです。
子供心には「お辞儀の仕方やお金の包み方とかコーヒーカップの持ち方とかを知らないと、人間上手くいかないのか?」と感じつつも、「いや、そんなちっぽけなものじゃない気がする。でもよくわからない。」といった感じでした。
でも子供の頃から先生の歴史小説は大好きで、子供ながら人生に迷ったり、苦しいとき今でもよく読み返しています。
子供の頃は物語的な楽しさだけで読んでいたのですが、大人になって社会人になるともっと大きな要素が含まれている事に気が付きました。
その一つが「礼(礼儀)」とは何かということです。
ある日突然気が付きました。
「礼と儀は別なんだ」
礼とは心の部分です。「相手を尊敬したり、大事にしたり、愛したり、心配したり、少しでも良くなってほしい、良い関係でありたい。」と人と人が、あるいは生物が、もっと言えばこの世にあるもの全てが調和するために必要な心。
ところが心で思っているだけでは相手に伝わりません。(まあ顔色で判断するとかは置いておいて)
そこで、「共通の言語」として身振りや素振り言葉しぐさ等を、「こう思っているときは」この方法、「ああ思っているときは」この方法と、見て聞いて相手に心が伝わりやすいように取り決めたのが「儀」です。
この礼と儀とを見直してより徹底的に体系化したのが「孔子」だといわれています。「孔子」はとにかく礼儀にうるさい。
礼と儀はいったりきたりする関係です。
「礼」←→「儀」
先ほどは、「心に思っているだけでは伝わらないから、「共通の言語」が必要だ」と話しましたが、逆に言えば、
「儀」(お作法、マナーなど)がきっちり行えていれば、相手に礼(心)を伝える事になりますね。
さらに二つ大きなことに気づく
まず一つに「こういう心」(礼)を表すのだという「共通の言語」(儀)を【発する側】も【受け取る側】も知らないと意味が無いということです。
日本ではお辞儀をしたりするのが普通ですが、アメリカでは握手したりハグ(抱擁)したりが普通だったりします。アメリカはまだ親近感ありますが、もっと知らない国の作法であればもっとびっくりするような違いもあるでしょう。
話す言葉が違えば会話を成り立たせるのもかなり難しくなります。
日本語しか知らない人とフランス語しか知らない人が会話を成立させるとなったら大変です。
この「共通の言語」(儀)の部分は大昔から取り決めがあって、時代の流れですこしづつ変わって忘れ去られたり残ってたり、地域によって異なったりします。
大昔から取り決めしたので、昔からある伝統的なものが守られる傾向があります。
二つ目に礼(心)の部分がおなざりになっていないか、ということです。
共通言語(儀)が正しく行われてさえいれば、OK!となっていないでしょうか。
心を伝えたくて作ったものが、いつのまにかそれが行われていれば良いとなっていませんか?
形骸化していないでしょうか?
アレやコレは本来どういう意味だったのか、どういう有難さがあったのか。
お作法の正しく行われていない順序・順番・角度を論じるのもよいですが。もっと大事な事があるじゃないかと思うのです。
子供の頃しっくりこないものがわかった
子供の頃読んでいた歴史小説のしっくりこない部分がぱーーーーっと氷解していきました。礼に悩んでいたのは別に現代人が小賢しくなったからではありません。もうずーっと昔から同じ事で悩んでいたのです。
礼儀とは心を鍛え、学ぶこと
仲が良いフリをするのではない、楽しいフリをするのではない、好きなフリをするのではない、心配しているフリをするのではない、愛しているフリをするのではない。
フリが相手に伝わってしまうのをごまかすテクニックを磨くことが成長とは言わない。
本当に心から相手を思いやれる心を鍛え、それがしっかりと相手に伝わる方法を学んでいきたいと思っています。それでは!